No.92 西の風新聞目次

鷗外荘に集う
平成21年3月13日付

「彼は幼き時より物読むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき『コルポルタアジュ』と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が貸しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。」

森鷗外の短編小説「舞姫」の中で若きエリート官僚である主人公がドイツへ国費留学の折、街角で出会い恋におちいった薄幸の美少女・踊り子エリスとの読書を通じての交流について書かれている場面である。

JR上野駅不忍口から京成上野駅の前を通り交番を右手に曲がり不忍池に沿って10分ほど歩くと、明治の文傑森鷗外居住の跡、鷗外荘に到達する。実は明治23年(1890)この旧居において鷗外は文壇処女作「舞姫」を執筆・発表したといわれている。管理している水月ホテルの女将からの絵葉書にはこの鷗外居住の跡について次のように書かれている。
“海軍中将で男爵赤松則良の持ち家で、鷗外はここで赤松家から迎えた妻登志子との新婚生活に入り、文壇処女作「舞姫」(明治23年1月3日「国民之友」)を発表。文壇に雄飛する文学サロンが華やかにくりひろげられたのがこの地である。木造の内部の木組みなどに明治の建築を偲ばせる趣が残されている。”

現在でも東京の雑踏とはまったく無縁のような静かな場所にあり、往時を偲ばせる庭園には、鷗外直筆の原稿からとられたという「舞姫の碑」がある。そこには冒頭の文章の部分が刻まれている。

2月も押し詰まった土曜日、縁あってその旧邸「舞姫の間」で仲間たちと食事をする機会があった。遠く過ぎ去った時代に思いを寄せて明治のロマンが蘇る場所で食事をとりながらタイムスリップしたような気分に浸ろうとの目的で私が所属しているふるさと会の女性有志による計画で開催されたのであった。題して「舞姫の間春の集い」。集まったのは余暇を楽しんでいる年金生活者、小唄・琴の師匠、大学院大学学長、歯科医師、産婦人科医師、小学校の校長、書家、専門誌発行社社長、会社経営者等々旧来の友人を中心に二十数名。焼物、煮物、鍋、酢物等を中心とした懐石献立のうまさもさることながらそれぞれの立場を忘れて、少年少女の頃、時代は異なるものの同じふるさとを駆け巡った仲間達と由緒ある場を借りての交流は楽しいものであった。

古き友、古き書物、古き建造物のありがたさを感じた次第である。

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