No.53 西の風新聞目次
碑文に思う 
平成18年8月25日付

鳴呼 安永天明際 昇平日久 上下恬憘 奢移成風 沈酣聲色狗馬之欲
逸游怠情 一無所爲 公生是時 卓然不爲世風所囿 能注心本務
以建久遠之業 可謂偉矣

今年の夏、先祖の墓参りを兼ね村上市へ出掛けた。
内藤五万石の城下町として古くから栄えた村上は新潟県北にあって日本海沿いに車で国道を一時間程北上すると山形県境(鼠ヶ関)に至る地である。元禄2年(1689年)7月28日、松尾芭蕉は曽良とともに酒田から村上に入り二泊したらしい。しかし残念ながら「鼠の関を終ゆれば越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず(奥の細道)」のとおり芭蕉の村上印象記はない。

今回の旅で、私は市指定の文化財「村上種川碑」(縦1.6m、横1.4mの石碑)に接する機会を得た。碑文は800字程の漢文で書かれている。内容は、旧村上藩の先人達が、藩内を流れる三面川(みおもてがわ)に遡上する鮭の保全のため、鮒や鯉は川のみでその生涯を終えるが、鮭は川で生まれ大海に出て大きく育ち再び生まれた川に戻ってくること(鮭の回帰性)に世界ではじめて着目し、その仮説に立って鮭が産卵し易いような環境(種川)を造り、たくさんの鮭卵を得、稚魚を育て海へ送り出し結果として長年にわたり漁獲量を確保し地域財政に役立てた経緯が書かれている。

建立の年月は記載されていないので不明であるが、諸事項からの推測では明治20年以降の数年の間とされている。冒頭の漢文は、私の目に留まった部分を転写したものである。

㈶村上城跡保存育英会発行「鮭の子ものがたりー歴史に残る人々―」に通解が載っているので紹介しよう。
「思うに安永・天明の頃は、太平の日々が続き、身分の上下を問わず、皆のんびりとして、ぜいたくな風習となり、退廃的な音楽や情事に耽って、畜生のように本能のまま行動する欲望に酔ってしまい、好き勝手に遊び怠けて、全くどうしようもない状態であった。綜理公(「藩主」)はこのような時代に生まれたが、世間から高く抜きんでて、風潮に捕らわれることもなく、十分に藩主としての務めに心を注ぎ、永遠に残る仕事をしたことは偉大といってよかろう。」

テーマ「子供の教育」藩主「我々大人」と読み替えて考えてみてはどうだろうか。


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