No.4 西の風新聞目次
せんせい
2002年8月30日付

 私が新宿・天神国民学校に入学したのは、昭和十九年四月であった。東京大空襲直前のことでもあり、徒歩十分程の学校へ着く間もなく、空襲警報が発令され、何も勉強せずに防空頭巾をかぶって一目散に帰宅することが日課であった。

 近所の少し年上の遊び仲間達はある日忽然として私の前から消えていった。いわゆる学童疎開だった。やがて私も家族で祖母方の地、千葉・富浦に疎開することになった。

 新宿・富浦間を何回か往復する途中、ある時はお茶の水駅で敵機来襲にあい、ニコライ堂に匿って貰ったり、ある時は、空襲警報発令で強制下車させられた小岩駅周辺で防空壕を探しさまよっている内に「危ない!」という周囲の声に母子一瞬反応してトラックの下に逃げ込んだとたんカラカラという音とともに鉄屑のようなものが多数落下してきて命拾いしたこともあった。

そんな目にあいながらも疎開した富浦は穏やかな遠浅な海があり、親戚の年上の女の子の背中に乗って毎日泳いで遊んだりして、戦局の差し迫った状況とは無縁の楽しい日々をしばし送ることができた。

 しかし、浜では若者たちが銃剣術の訓練、小型の水陸両用車や戦闘機が慌ただしく陸海空を動きまわっていた。本土決戦を想定したものだったのかもしれない。

空襲警報のサイレンが町中鳴り響くこともしばしばで、防空壕の隙間から空を見上げればはるか青い天空に白銀色に光るB29の編隊が独特の音をして東京方面に飛んで行った。

 転校手続きで母親に連れられて町の学校へ行きそこで出会ったのが畑山という女の先生であった。少し年配の先生はにこやかな顔をして私に声をかけ一冊のノートを手渡してくれた。日本の白地図が書かれたノートであった。

 戦雲は急を告げ富浦も危ないという判断からか私は母のふるさと新潟・高田へと更に逃げることになり、そこで終戦を迎えたので、富浦にいたのはわずか夏の一、二か月ということになる。

 短い出会いではあったが、畑山先生のことが、あれから半世紀以上過ぎた現在、何故か私の心に強烈に残っている。

 今にして思えば、あの時の畑山先生の言葉かけと一冊のノートが私の体のどこかにあった小さな傷を癒し、希望の灯を点してくれたものと終戦記念日をむかえる度に思い出し感謝している次第である。
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2002・8・9〜 Produce byIchiro Akami