No.26 西の風新聞目次
戦争の恐ろしさ 風化させない
私の戦争体験記(少年時代の記憶から) 下
2004年8月13日付

《進駐軍とMP》
高田の町なかに終戦になって数日も経たない内に進駐軍がジープに乗ってやってきた。辻辻にはMPの腕章をつけた体の大きな黒人兵が腰にピストルを下げて立っていた。夜は辻の端から端までコツコツと軍靴の音をたて警戒のため歩いていた。
進駐軍を「決して二階の窓から見るな」との指示が届いていた。狙撃人を恐れて銃を二階をめがけて発射するのではないかとの危惧からだった。

《母の着物が食糧に》
高田では、母の実家や親戚達の協力で慣れない雪国の地にあっても、不自由のない疎開生活を送った。
母は、思い出の着物類を持って、時々農家を訪ね、穀物類と物々交換して食糧確保に奔走した。私はいつもついていった。どんな条件でどんな成果があったのか子供の私にはわからなかった。
ただ帰り道、広い田圃の中の一軒店で食べたトコロテンのあの酸っぱい味が、風になびく緑の稲穂とともに今でも忘れることができない。

《父母に守られて》
話は前後するが、疎開は全て母子(母、長男の私と弟二人)だけであった。父は東京に残り家、地域を防衛していた。ただ私達母子が東京から疎開先に移動する時は必ず付き添って護ってくれた。

特に上野駅から新潟方面へ向かう列車は、超満員でトイレはおろか一歩たりとも動けない情況が常であった。満員列車も極限の時はデッキまで鈴なりの状態で父がドァ代わりになって私を支えてくれたこともあった。
車内では当時勝手に持ち歩くことを禁止・統制されていた「米・小豆」の摘発検査が時々行われ大人達は慌てふためいていた。
この戦時下、私は戦火を逃れてあちこち逃げ回ったが、幸い住む家の苦労、食べ物の苦労、着る物の苦労、履く物の苦労等をした記憶はない。多分両親が子供達のためにと何らかの苦労を一身に引き受けてくれていたのだろうと今は思っている。

《廃墟の中の夕日》
戦争も終わり疎開先の高田から超満員列車で父親に連れられて上京したのは、昭和二十一年のことであった。父とともに自然と足は東大久保にある自分の家にむいていた。
新大久保駅のホームに降り立ってみると辺り一面三百六十度全て焦土と化していた。後から聞いた話だが、東京大空襲の日、二百九十八機の爆撃機が飛来し焼夷弾、爆弾を投下したという。自分の家は勿論のこと友達と楽しく遊んだあの街角も、学校も、幼稚園も全くなくなっていた。小学三年の私には何の感情も起きなかった。ただ西の方面に沈む真っ赤な大きな太陽が美しかったことが今でも脳裏に焼き付いている。

《戦後生活あれこれ》
父親の仕事の関係で、上京後は、三鷹に落ち着くことになった。
三鷹での二年あまりの生活は、戦争の影響をまともに受けたものだった。書くスペースに限りもあるのでここでは、思い出すまま出来事を羅列してみることにする。

・じゃがいもと米軍のチョコレートが主食の米の変わ りに配給された。

・一日米三合を約束すると国政選挙の候補者が熱心に演説していた。

・大人の中には、酒代わりにメチルアルコールを飲んで死ぬ人も多くいた。 

・父親は配給でもらったきざみタバコを簡単な器具を使って紙まきタバコにしていた。私も手伝って喜ばれた。

・子供達は着る物も履く物も満足に無かったので誰も皆、パンツ一つ、はだしで外で遊びまわっていた。

・遊びの主なものは、にら虫取り(地面にある細い穴にニラを一本入れて小さな幼虫をつり上げる。)だった。

・現在の私立大成高校近くに米軍専用のキャバレーのようなものがあり、深夜までキャーキャーという女の声が聞こえていた。あれは別世界だと子供ながら思っていた。

・家の食卓は穀物類がいろいろと入ったすいとんだった。米は殆ど手に入らなかった。

・父親がどこで手に入れたか手作りのパン焼き器(木製で内側に銅?板を二枚張り付け電流を通して焼く。)でモロコシか何かの粉を使ってパンを焼き食べた。小麦粉は手に入らなかった。

・一週間通った小学校(現三鷹市立第四小学校)では、たまたま運動会にぶつかった。天神国民学校で一緒だった近所の女の子と偶然に再会し、ことばを交わすことなく二人で並んで綱引きをやった。B29の飛ばない青空が美しく感じた。

・学校(現三鷹市立第二小学校三・四年生頃)は二部授業(教室が足りないので午前の部、午後の部に分けて行う)で、一クラス六十人以上だった。

・学校には体育館もプールも何も無かった。工場の用水槽で泳いで死んだ友達もいた。

・教科書も無かった。授業は、新しい指導法を取り入れたのか六十人超の子等を教えるための先生の工夫だったのかわからないが十人位を一グループにし机を寄せて行った。

・担任の山崎俊子先生は、夏休み江ノ島へ連れて行ってくれた。記念のスナップ写真をみると私は戦闘帽をかぶっていた。

・その時、新橋駅で戦争で親を失った少年達が私達に「くれよー。くれよー。」と青白い腕と手を差し出し物乞いしていた。このような少年少女が上野駅の地下道にも沢山いた。

・友達から来た郵便物はすべて進駐軍に開封され、英文字がプリントされた透明のテープで封印し直されていた。

・学校で日本の歴史を学ぶことを禁止されていた。運動会では「騎馬戦」等という戦闘を思わせるような競技も禁止だった。「天照大神」を「てんてるだいじん」といって父親に笑われ、はずかしく、くやしい思いをしたこともあった。

《エピローグ》
 新潟・村上の家に疎開してそのまま滞在していた祖父が倒れ床に臥した。長男の父は介護のため私達とともに三鷹を離れることになった。六回目の転校(現村上市立村上小学校)で、五年生の途中であった。
新潟は三鷹と違い「米」が流通していた。生活は皆質素で今にして思えば貧しかったが、そこにはもう戦後の混乱はみられなかった。
家には天井のすぐ下に棚を作ってラジオが置いてあった。音声が悪くなるとポンと手でたたけばまた直るというラジオであった。家族で「鐘の鳴る丘」とか「おらぁー三太だ」等のNHK番組に聞き入った。

一体私にとって戦争とは何だったのだろう。家も爆撃でなくなってしまった。仲良しの友達もばらばらにどこかへ行ってしまった。幸い私の父は戦地で死ぬことは免れたが多くの子供達の父親は南の空、海、陸地で露と消えてしまった。食べるものも満足に手に入らない。履物もない。着る物もつぎあてをしたものだった。教科書もない。紙もない。鉛筆も不足している。ノートも手に入らない。

 これが私の戦争体験だった。十歳そこそこの少年だった私にはただ現象面の記憶しかない。それを承知で種々羅列しただけである。

 私はこの体験を遥か遠くに消え失せようとしているところから手繰り寄せ書きとめている内に何故か目頭が熱くなるものを感じた。
しかし私はこれを単なる英雄気取りの自慢話や感傷に立脚した話に終わらせたくはないと考えている。今を生きる子供達に正確に伝えられ、彼等がその現実を頭の片隅におきながら学校でしっかり勉強し、大人になった時、自らの考えで判断出来る賢い人間になってもらいたいと心から願っているものである。 おわり

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2002・8・9〜 Produce byIchiro Akami