No.25 西の風新聞目次
戦争の恐ろしさ 風化させない
私の戦争体験記(少年時代の記憶から) 上
2004年8月6日付

《プロローグ》
 八月十五日、今年もまた日本が世界の国々を相手に戦った太平洋戦争の終戦記念日が巡って来る。その日、私は疎開先であった母の実家がある新潟・高田(現上越市)にいた。この地方特有のじっとりと焼きつけるようなとてつもなく暑い日であった。私は国民学校(小学校)二年生で、涼を求める目的もあって、洗濯のため近くの川に出かける母の後について行きそこで終戦の知らせを受けた。

 あれからもう六十年近い歳月が経過しようとしている。私も今年六十七歳、周りの人々の大部分が戦争を知らない世代となってしまった。

 多くの尊い命を犠牲にしたあの戦争の恐ろしさを風化させないためにも、そして明日の日本、世界を背負って立つ子供達に戦争の悲劇、苦しさ、惨めさを伝え二度とこのようなことを繰り返さない日本になるよう努力してもらいたいためにも、当時十歳前後の少年だった私が身を持って体験した事実を思い出すまま出来るだけ感情や感傷を加えずに綴ってみることにした。そうすることが私の、いや私達の年代の者に課せられた役割の一つと考えたからである。

《開戦前夜 生まれた頃のこと》
 私が生まれたのは、昭和十二年五月のこと。ところは東京新宿・東大久保(現新宿七丁目)、近くに女子医専(現東京女子医大)があり、そこで生を受けた。太平洋戦争開戦四年前のことであった。

 家は祖父と父が酒屋を経営していて敷地内には何故か炭焼きの窯があり、明治生まれの父が子供の頃は、この辺りでも電燈代わりに石油ランプを使用していたようで、父の話では子供達の主たる手伝いは、その芯の清掃だった等、現在の新宿の発展振りからはおよそ考えもつかないことであるが、明治、大正、昭和へと時代が変わるものの、ゆるやかな時の流れのままに表面的には、平穏な日々が続いていたようであった。

 私は家の前の大通りで近所の友達と朝から日の暮れるまで、かけっこや、かくれんぼ、鬼ごっこ、石蹴り等の遊びに興じていた。
 幼稚園は、園長が私の家の先祖と同じ新潟・村上出身という縁で、子供の足ではやや遠い余丁町の愛光幼稚園(現在はない。)へ通い、途中毎日私を待ち伏せし、通せんぼする体の大きな、いわゆる「いじめっ子」から自らの力ですり抜ける作戦に頭を使ったり、天神様の祭の夜店の楽しみ、休日には、叔父達と高尾山に汗して登り、豊島園では、魅力的な大型遊具に興じ、あるいは親戚のあった世田谷にタケノコ掘りに出かける等して子供なりの生活を楽しんでいた。

 しかし、私の七五三の記念写真が軍服姿だったり、近くの明治通りに兵隊や戦車の隊列が通ると聞いてはそれを見に行くのが楽しみだったことをみると世の動きは、確実に軍国・戦争へと駆り立てられていたのであろう。

《国民学校入学の頃》
 天神国民学校(現新宿区立天神小学校)一年生になったのは、昭和十九年四月、東京大空襲一年前のことであった。この頃から事態は風雲急を告げる感が私にもひしひしと伝わってきた。
 以来小学校を卒業するまでの僅か六年間に六回も転校することになり、それもすべてが戦争の影響を受けてのことであった。私の戦争体験の記憶はこの期間に凝縮されている。                  徒歩十分程の学校へはランドセルの中に空の弁当箱を入れ(学校で給食として米だけのおじやが週一回しゃもじ一杯貰えた。)それに防空頭巾を欠かさず持って登校した。途中空襲警報のサイレンが鳴って学校に着くことなく家へ一目散に逃げ帰る日が多くあった。

 国語の時間、教科書を使用して「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」等と声を出して読み、カタカナから学んだ。また、何の授業であったか定かでないが、しばしば日の丸の小旗を作ったことが記憶に残っている。

《東京脱出》
 ある日突然近所の遊び友達が皆私の前から消えてしまった。私より少し年上の子等、国民学校三年生以上が親許を離れてどこか遠くへ集団学童疎開で行ってしまったのであった。
 今にして思えば笑止千万であるが母達の家財の一部を池袋の竹薮のある知り合いの家へ疎開させたりもした。
 いよいよ戦火を逃れて家族で東京脱出する日が迫ってきた。

《死の狭間で》
 最初の疎開先は祖母方の地、千葉・富浦であった。富浦は内房で東京からそう遠くない位置にあり、私は母に連れられて二人の弟達とともに何度か往復した。途中列車の海側の窓の目隠しシャッターを下ろされ、楽しみだった海の風景を眺めることが出来なくなった。東京湾に軍事施設があったためであった。

 ある時はお茶の水駅で突然空襲に会い、列車から強制的に降ろされ逃げ場を探して母子路頭に迷った時、ニコライ堂にかくまってもらった。ここは攻撃されることはないと神父から聞かされ、ほっと息ついたことがあった。

 また、ある時は、新小岩駅付近で同じ目に会い、防空壕はどこもいっぱいで、母子うろうろしているうちに「危ない 隠れろ!」の大声に促されてとっさに近くの空地に止まっていた大型トラックの荷台の下に逃げ込んだ。その直後カラカラっという乾いた音をさせて鉄屑が多数空から落ちてきた。敵機を狙った高射砲の薬莢の欠片のようなものであった。
 しばらくトラックの下に恐怖で震えていると道路の向かい側の家の年配の女の人から「こっちへいらっしゃい。早く!」と声がかかった。家の中の防空壕に入れてくれ、いもを一つもらって心身ともに助かったことがあった。

《富浦でのこと》
 富浦での疎開生活は、私にとっては天国のようなものであった。海は遠浅、穏やかで、夏は殆ど毎日そこで遊び続けた。親戚の年上の女の子の背中に乗って泳ぎを教えてもらった。
 学校(現富浦町立富浦小学校)は、海辺に建っていて担任の「ハタケヤマ」先生に初めてあった日、戦時下貴重品だった新しいノートを一冊もらい短期間であったが勉強したことをかすかな記憶として残っている。
 海では水陸両用車や小型の戦闘機が軍事訓練のためか音を立て忙しく動きまわっており、浜では若者たちが銃剣術の訓練に汗を流していた。本土決戦に備えていたようであった。
 時々青い上空を白銀色をしたB29の編隊がうなるような独特の音をたて東京方面に空爆のためか飛んでいった。富浦でも空襲警報がかかった。その時は皆で家のそばに掘ってあった防空壕に逃げ込むのであったが、おばはいつも「お母さんと一緒に入りなさい。死ぬ時は一緒の方が幸せだから。」と私に言い聞かせてくれた。

《高田で終戦》
 私たちは更に安全を求めて母の実家のある新潟・高田(現上越市)へ逃げ延びることになった。
 高田は、雪の深いところでそのため「雁木」という大通りに面した家の一階の屋根には特殊な工法(庇を長く張り出す。)が施されていた。通りの両側の家は、降った雪を道路に下ろして二階あたりまで雪でいっぱいになる。人々は道路を歩けなくなる代わりに雁木の下を歩くのである。

 子供達は登校(現上越市立東本町小学校)の時は雁木を利用せず道路にずっと積まれて長い峰を形成する山のようになったその尾根の部分を遊び気分で歩いた。私はゴム長靴が手に入らなかったこともあり藁で作った履物で慣れない雪道を汗びっしょりで歩いた。
 ある夜明け、新潟市方面の空が真っ赤な色に染まっていた。長岡の大空爆だった。大人達は屋根に上り高田でなくて助かったと口にしながら眺めていた。                             つづく

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2002・8・9〜 Produce byIchiro Akami