No.20 西の風新聞目次
「鮭っ子物語」
2004年4月23日付

 北海道日本海沿岸は、この春、ニシンの水揚げが千トンを超え一挙に昨年の五倍強、十年前の百七十倍に跳ね上がり、昭和二十年代以来、五十年振りの「ニシン復活」に沸き返っているという。(四月三日付読売新聞)
 戦後の深刻な食糧難を経験した我々の年代の者にとっては、「ニシン」といえば「かっちゃん数の子ニシンの子」のはやしことばに代表されるように格別の思いがある。  
 戦災の廃墟から立ち上がろうと懸命だった日本人たちは「ニシン」の豊漁の掛け声でどん底から這い上がった。
 「あれからニシンはどこへ行ったやら」(なかにし礼作詞「石狩挽歌」)ではないが、日本近海から「ニシン」が消えて久しい。今回の大漁復活は地元北海道が取り組んだ「ニシン資源増大プロジェクト」による稚魚の放流や産卵場の造成、捕獲の制限等の効果があらわれたものらしい。  

 私のふるさと新潟・村上市は、市内を流れる三面川(みおもてがわ)に毎年鮭が多く遡上することで名をなしている。
 村上の鮭の漁を盛んにしたのは江戸時代、村上藩士が世界ではじめて鮭の回帰性を発見し、川をのぼる鮭が産卵しやすいように本流をバイパスさせる人口河川を作り、ふ化を助長する「自然ふ化増殖システム」を考案したことによる。明治十七年には鮭遡上数(漁獲高)約七十三万尾という途方もない数字を記録している。(村上市観光協会発行「母なるまち村上」)
 そんな歴史のあるまちに暮らした私は小中学生の頃地域の人々から何かにつけて「鮭の子(鮭っ子)」といわれ大切に教育されてきた。
 私は現在、その村上で市民がインターネット上で毎月一回発行している情報誌の一コーナーのお手伝いをしている。題してリレー随筆「鮭っ子物語」。
 現在は村上を離れて各地で暮らしている鮭っ子たちにリレー式にふるさとへの想いを題材に随筆を書いてもらいその発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としている。
 正に稚魚で放たれた鮭が大海を旅し、再び母なる川、三面川に戻ってきて地域の発展に役立っているように、村上地域で育った「鮭っ子」たちのふるさとへの応援歌となれば幸いと思っている。

 小中学生時代の子どもの教育は、家庭と学校が主として担っているが、地域社会での土の匂いのする教育もまた大切な役割を持っていると私は思っている。
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