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二度建てられた村上城の天守


2004年11月28日寄稿
渡辺 直人

 「お城」と言えば、だれもが真っ先に思い浮かべるのは、天に向かってそびえる天守閣(学術的には「天守」)の姿ではないでしょうか。北日本では会津若松城や弘前城のものが有名ですが、村上城にも江戸時代には立派な天守がそびえていました。

 しかも、村上城の天守には、普通のお城にはない特徴がひとつありました。それは、江戸時代の間に、2種類の天守が存在したことです。多くのお城では、一度作った天守をずっと大事に使い続けます。ところが、村上城では、もともとあった天守をわざわざ解体して、新しく天守が建て替えられたのです。

 では、村上城の2つの天守はどんな姿をしていたのでしょうか。古記録や絵図をもとに探ってみましょう。



堀直竒が建てた最初の天守

 村上城にはじめて天守が建てられたのは、1620年頃と推定されています。天守を建てたのは、当時10万石の大名として村上を治めていた堀直竒(ほり・なおより)です。直竒は天守のみならず、村上の城下そのものを大々的に整備・拡張しており、城下町・村上の事実上の建設者と言えるでしょう。

 さて、このときに建てられた天守はどのような姿をしていたのでしょう? 残念ながら、設計図が残っていないため、詳細な姿を知ることはできません。しかし、国立公文書館が所蔵する「正保の城絵図」には、簡単な描写ながらも、その姿が描かれています。それによると、天守の1階の屋根には千鳥破風(ちどりはふ)と呼ばれる、装飾用の三角形の屋根が乗り、3階の壁面には、小さな屋根を乗せた出窓が突き出していたようです。

 また、新潟大学が所蔵する「堀家文書」からは、天守の外観が姫路城や会津若松城のような漆喰の塗り込めではなく、漆喰の上に黒い板を貼り付けた「下見板張り」であったことが読み取れます。この種の建築としては、松本城や熊本城の天守が有名です。「正保の城絵図」には板張りになっている様子が描かれていませんが、おそらくは、絵画表現の都合で省略したものでしょう。

 以上のような考察をふまえて起こしたのが下のCGです。屋根の形や細部の構造などはあくまでも推定ですが、1620年代のお城山の頂上には、黒光りする無骨な天守がそびえていたことはほぼ間違いないでしょう。





松平直矩が立て替えた2代目天守

 さて、堀直竒が築いた天守は、その後40年ほど、お城山の頂上にそびえていました。しかし、堀直竒から数えて4代目の藩主、松平直矩(まつだいら・なおのり)は、1663年に天守の立て替えを幕府に願い出るのです。

 このときの理由は、「建物の痛みが激しかったため」と幕府に説明されています。しかし、最高級の木造建築である天守は、わずか40年で傷んでしまうほどヤワな建築ではありません。むしろ、自らの権威を誇示するために、あえて天守を建て替えようとしたと考えたほうが妥当なように思われます。

 2代目天守についても、残念ながら詳細な図面や絵図は残されていません。しかし、松平直矩の自筆日記から、天守が3階建てであったことや、屋根の上に「唐破風」と呼ばれる飾りがついていたことなどが判明します。また、初代天守が黒い板張りであったのに対し、二代目の天守は漆喰塗り込めの真っ白な外観の天守になったようです。村上城は別名「舞鶴城」とも呼ばれていますが、そのことからも、お城の外観が白くなったことが推察されるのです。

 以上のような考察と、村上市が作成した復元予想図を参考に起こしたのが以下のCGです。堀氏の無骨なデザインの天守とは対照的に、どこか上品な感じのする天守だったと思われます。





落雷で消失した天守

 松平直矩の手によって、美しく再建された村上城の天守。何事もなければ幕末まで残っていたはずです。しかし、運命の1667年10月18日、折から激しくなり始めた雷はついに天守を直撃し、折角建て直した天守をまたたく間に炎上させてしまいます。2代目天守は、わずか4年にも満たない短命に終わってしまったのです。お城山の頂上には、天守の柱を立てた礎石が今でも残っていますが、そこには、火災の跡と見られる焼けただれた跡やひび割れが数多く見られます。

 その後は、藩の財政の悪化などにより、村上城の天守が再建されることはついにありませんでした。村上城は天守のない城として明治維新を迎え、現在に至ります。





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