リレー随筆「鮭っ子物語」  No.2


  われはサケっ子、
     故郷忘じ難く




 今年も、私は毎日、鮭を食べている。日頃、「鮭は魚の王様、なかでも三面川(みおもてがわ)の鮭は、日本一、これが食えなくなったら、わが人生、おしまい」なぞ、機会あるごとに周りに広言してきた。そのせいか!?最近は、郷里・村上が、テレビにしばしば、登場する。三面川の鮭漁、独特の塩引きのつくり方、鮭づくしの料理など、石垣の遺る城下町の冬の風物詩である。

 昨年暮れ、まず三面川の塩引鮭が2尾届いた。そこへ、札幌から紅鮭、とどめは、三面川の生鮭(ハラコ入り、つまりメス)が、1尾、クール便で届く。村上の家を継いだ弟からである。生鮭が来ると、軍手をして、私は,台所に立つ。文字通り、解体の大仕事。出刃で、頭を落とし、尾、鰭(ひれ)をはずす。これらは、氷頭膾(ひずなます)にするか、アラ煮か、鍋の具か。俎板(まないた)をまっ赤にするほどの鮭の血。それから、身を三枚におろす。私は、出刃のせいにするが、かなり、いいかげん。昔、父母は上手で、骨は串にさし、炭火で焼いてパリパリ食べた。そんな綺麗にはできない。もちろん、紅い宝石“ハラコ”は、丁寧にとり出す。ひとハラと、いうが、想像以上の量。これをつぶさず丁寧にバラす。半月状に切った大根でなでるのがいい、根気がいる。そして醤油と酒で漬ける。これを一人でやる。男の仕事、と威張っているが、なに、2年半前、妻が脳出血で倒れ、後遺症で、助手が、いなくなっただけ。

 この日から毎日、鮭を食べる。石狩鍋、のっぺ汁、切り身、氷頭膾、そして酒びたしに、ハラコ。北海道の“ちゃんちゃん焼き”という鮭の大量消費法も覚えた。4〜5人で食べるには、これが、いちばん。暮れ、正月から2月いっぱい、私の暮らしには、40年前の田舎が、続いている。

    友は健在年に一度の鮭だより
               加藤 楸邨(しゅうそん)

    熱飯に鮭喰み母を忘じをり
               菊地 一雄

 村上・三面川の鮭漁、いまや有名だが、私には、複雑な想い出につながる。鮭漁は村上藩の事業であった。大きな財源となったし、子弟の奨学金ともなった。その漁業権をタテに、村上は、明治以降も、士族たちが住んだ、村上本町と、商家、工場地域の村上町と、分かれていた。小学校も2つ、しかも背中合わせで。本町小学校の子は、士族出に関わりなく、“サケの子”と呼ばれた。私は、敗戦後、本町小学校に入る。1年後、両校は合併する。当時は,何も知らなかったが、合併は当たり前、なんたる狭量、閉鎖的な、と思う。江戸時代の藩政治の狭量さが、わずか、50年前まで続いていたなんて。鮭の帰る川のある、越後北端の、のどかな城下町。テレビの絵にはなりやすい。だが、私には、画面を、いい田舎だなあ、素直に喜んでは、見られない背景が、ほの見える。冬の明け方、薄明かりの中、大人が数人ずつ大きな銛(もり)を肩に、漁姿で、黙々と川に向かうのを、息をつめて、窓から覗いていた記憶が、鮮明にある。

 年明け、村上の弟から電話があった。年始の挨拶のあと、「ところで兄貴、鮭を1人でさばくの大変だろう。この次から、こっちで綺麗にして送ろうか。ハラコも」「俺、上手なんだよ。だけど助かる。頼むよ」

 朝、鮭で熱飯を食べながら、鮭1匹との対面なし、でいいか、兄貴は、まだ考えている。




リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。                  (編集部)

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鈴木 富夫(すずきとみお)
村上小学校卒業(昭和27年3月

(株)講談社にて「週刊現代」編集長などを経て取締役。
現在、同社顧問。





筆者(伊豆・宇佐美の元NHKアナウンサー小谷伝氏の山荘にて)




故飯島清氏(政治評論家)を偲ぶ会にて。
左は共同通信・八木原建機氏




鮭のいぐり網漁(三面川)
背景はお城山




青砥武平冶記念コーナー
鮭の保護・増殖に尽くした武士
 (イヨボヤ会館内)















次回予告
長谷川康夫さん
昭和33年村上高校卒業。
仕事のかたわら、村上高校同窓会
関東支部幹事長として、在京の村上
出身者のまとめ役として活躍。