村上市史写真展 村上広域情報誌2001


    学  校

            資料提供:村上市郷土資料館

明治から昭和30年代までの人びとのくらし



 政府は、「国民学校」の方針をもとに、明治5年(1872年)に「学制」の発布した。それは国家のための教育だった。以来、「自由教育」、「戦いに勝つための教育」、「戦後の民主教育」と紆余曲折を見て現在にいたるが、学校を創設するころは、経費のほとんどが地元住民の負担であったので、その捻出が容易でなく、そのため寺院や個人住宅で開学するところが多かった。それでも明治後期から大正期にけては、各地に本格的な校舎建築するにいたる。





村上尋常高等小学校(大正後期)
大町校と片町校で発足した小学校は明治12年に村上小学校となり、同22年に新校舎が建てられ、その後増改築が重ねられた。




村上町尋常高等小学校の卒業生(大正後期)
明治33年、村上両町の尋常小学校に高等科が併設され、村上本町尋常小学校・村上町尋常小学校と改称された。それぞれ本町校・町校と愛称され、村上の小学校教育を担った。



瀬波町尋常高等小学校(明治後期)


大月小学校(昭和29年)


山辺里小学校(大正後期)


村上幼稚園(昭和14年)


岩船尋常高等小学校(大正3年頃)
同校の創立は明治6年4月。校舎新築は同24年である。


吉浦小学校(昭和2年)


村上中学校正門(昭和初期)
現在の村上市役所の位置にあった。右手に見える近衛門は今も残る。


村上中学校の運動会(明治後期)
中学校の運動会は、軍事教練の成果を発表する場でもあった。写真は発火演習する生徒。


桜ヶ丘高校農業科生徒の田植え実習(昭和30年代)
山居前にあった学校田での田植え。この当時は作業服もなく、制服制帽のままで泥だらけになりながらの田植えである。


村上高等女学校通り(昭和初期)
村上桜ヶ丘高校前の通りは、村上高女時代に通称、女学校通りと呼ばれた。土居の上には桜が植えられ、白く乾いた道を自転車と荷車が往来する閑静な通りである。


村上高等女学校の茶摘み(大正8年)
女学校の校庭にも茶畑があった。5月末頃には生徒総出で茶摘みが行われた。


村上高等女学校生徒の体操(大正12年)
体操服は、白のシャツにスカート、帽子といったいでたち。


寮の仲間と(大正7年)
村上実科高等女学校1年生の同じ部屋の寮生の記念写真。座っている人は一様に足の上で手を組み、立っている人はしっかり気をつけの姿勢をとっている。当時の女性にとって礼儀は重要なもののひとつであった。


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