http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001

村上市郷土資料館秋季特別展  
                        
      開催期間 平成15年11月1日から11月30日まで

忘れたくない郷土の「人」と「もの」−1

時代の流れの中で、
忘れかけている郷土の作家、
あるいは、かつては生活の中に生きていた
道具や生活必需品がありました。

人・木村重明遺作展
  親子3代で築き上げた村上の螺鈿(らでん)細工







かては村上焼として親しまれてきた湯呑と皿
  もの・村上焼遺作展







人・木村重明(号は虹明)の略歴


@明治22年(1889)6月1日、新潟市古町に木村重吉の長男として生まれる。

A祖父竜太郎は村上藩士でしたが、廃藩後、新潟市に移住して、古美術品の修理修繕を生業とする傍ら、青貝を用いる技法を思い立ち、青貝細工と称して世に出しました。

B重明は幼児の頃から絵画を好み、画家を志しましたが、12歳のとき父重太郎が亡くなり、家業に従事することになります。しかし青貝細工には師匠も文献もありませんでしたので、独学、独創で制作に努力したといいます。

C大正4年(1915)農務省主催の展覧会に作品(唐美人)を出品して入賞、また新潟市主催の東京名作展に「鷺と鷭」を出品し、東京美術学校(現・東京芸術大学)の正木直彦校長に認められました。
このとき青貝細工と称していたものは、実に1300年もの歴史を有する「螺鈿」であることを教えられたといいます。この正木校長の勧めに従って上京して,同校長の指導を受けて螺鈿の研究に励みました。同9年(1920)、聖徳太子記念奉賛会出品の「聖徳太子御肖像」は日仏交換作品となり、同12年(1923)関東大震災によって破損した古美術の修理のため、帝室博物館(現・国立博物館)に入り、修理に専念するとともに研究に従事しました。

D昭和13年(1938)、昭和天皇の御下命により、御物修理のために宮中に参内、同15年、宮中歌会始めの御用品を制作しました。また日独同盟に際して日本からヒットラー総統に贈られた「兜」も木村重明の作品でした。

E同17年、村上に帰り、本町に定住しました。同21年には「飾花瓶一対」をマッカーサー司令部に、同25年、酒田市美術館に出品した作品4点を進駐軍司令部に買い上げられました。こうしたことからか、同27年、平和記念米国招聘日本現代美術展にも出品しています。

F同34年、村上市より文化功労者として表彰されました。同39年、新潟国体時に県から両陛下への土産として重明の手による「天女図」の額が献上されました。でも、このころから病気療養の身となり制作を断念し、東京都小金井市の長女宅に移住しました。
昭和48年(1973)6月に亡くなられました。享年は85歳でした。


もの・村上焼について

明治から大正時代にかけて村上で製造されていた陶器で、当時は新潟県内でも村上を代表する陶器として生産され、出荷量もかなりあったといいます。

製品には、小皿、中皿、茶碗や急須、湯呑、銚子や盃、大きなものでは甕など直接生活に結びついた製品が多くありました。また、素地に絵付けをしたものと彫りで文様を施したものとがありましたが、素地に彫りで文様を施した作品は、素朴さの中に、どことなく気品を漂わせているようにも感じられます。

すでに生産が途絶えて久しいですが、このまま人の記憶の中から消えてしまうのも、寂しい気もします。ぜひ、今回の特別展を機会に、あらためて村上焼の良さをご覧いただきたいと思います。


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