http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2008年5月号

  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.83

戦争が終わった頃
家田 昌典
(いえだ まさのり )
村上高校3期生
(旧制村上中学校 昭和20年4月から22年10月まで在籍)






昭和21年 筆者右から2人目






昭和25年6月
村高3年解析Ⅱクラス(プール前にて)
 









 終業のベルが鳴り終わるまで止まらない殴打の音でクラスの空気はこわばっていました。
国語のK先生がこともあろうに、小田さんに対して乱打の嵐を浴びせていたのです。
その頃あんちょこという便利な副教材が書店に並んでいて、これで質問に答えた大滝陸奥さん(故人、長岡の中学校教員)を笑ったというのが、原因だったようです。
 終戦間もない頃とは言え、ヒステリックな制裁にクラス全体がいきり立ち、教室を出たK先生の後を追って、私達は職員室に飛び込みました。
 翌日小田さんは両頬を腫らせて登校し、一言も語らなかったのです。
この事件は60年を過ぎた今でも誰も言葉にしていないでしょう。
 私はそんな彼から「耐える」ということを教わりました。
 昭和20年の9月になって、志願兵として陸海軍を目指して出陣した4、5年生(今の高1・高2)が軍服姿で復学してきました。
 私のクラスにも海軍から高橋邦二さん(故人、村上市議会議員)、陸軍からは大浦啓一さん(元中学校長)が加わりました。
 石坂洋次郎の「山のかなたに」を読まれた方は、思い出してみて下さい。全校あげて日の丸で送り出した上級生の扱いで打つ手を失くした先生方、ただ暴力の的とされた中学1・2年生の反抗の実話で構成されています。
 村上にも全く同じ時代がありました。青森と村上の違いは、村上藩士の耐える精神だったと今になって納得しています。
 国を護るの精神で進んで特別攻撃隊を志願し、17,8歳で故国のために死ぬ道を選んだ先輩達は、飛行機も、銃も、弾もない軍隊で朝晩殴り続けられて復員したのです。
やりきれない思いでいたことを中学1年生の私でも痛いくらい理解していたからでした。
 藤基神社の境内で、本町学校の体育館で総員制裁の名で先輩達は体験してきた軍隊式の制裁を私達に復元した見せました。私達は「耐える」という美言で嵐の通過を待ったのです。
 10月になって超低空のシコルスキー戦闘機が4機編隊で飛来し、瀬波浜に上陸したアメリカ兵が学校ヘジープで乗り付ける度に私達は壁板を剥がし、軍国主義の教科書を放り込むいじけた作業もまもなく終了しました。
 今でも思い出すのはこの時代の村上中学校の先生方のレベルが高かったということです。
混乱の時が過ぎ高田延喜先生、本間隆吉先生、佐久間勇先生、川口宏先生、秋山忠勝先生
後年クラス会で20人以上恩師の綽名クイズを出題したところ2名の全問正解者なども出て悪童達の記憶力も抜群です。
 夏の日、女学校(現在の桜ケ丘)の傍の垣根にもたれて、3人の仲間が首席は佐野清広さん(東大入学)に間違いなかろう、平均点は93点かな。(当時の通知表は2回の試験の平均点でした)
 「僕達3人で誰が最初に平均点90点になるか競争しないか」と恐ろしい話をしていました。
この結果は確認しないまま現在に至っています。
私は3年で埼玉の県立浦和へ転校してしまったからです。
 2人の友人は村上女子高、新発田高校、三條高校の校長を歴任し叙勲の栄に輝いた鈴木博信さん(飯野)、そして薄板鋼板のマイコン制御設計を確立して、世界の自動車産業を変え、工学博士となった斉藤奎二さん(安良町)です。
  村上時代の友人達とは、頻繁なメールのやりとりで濃縮された交友が続いています。

リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

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