http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2005年5月号

   リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.48

豪雪のなかの里帰り

 名古屋駅を発ったのは暮れの29日の夜だった。車内は大きな荷物を抱えた帰省客で、一睡の余地もないほどの超満員。幸いなことに私は、座席指定券を手に入れるために発売の三日も前から友人4人が昼夜交代で窓口に並んでくれたおかげで、なんとか立ちんぼうだけはまぬがれた。とはいっても、向かい合って座っている座席の間にさえ数人の乗客が押し込められているため、お世辞にも「快適な旅」などとはいえない状態ではあった。

 列車の様子がおかしくなったのは、米原を経由して敦賀駅(福井県)を過ぎたあたりからであった。スピードががたんと落ちて、止まっては進み、進んではまた止まる。そんな走行を何回も繰り返し始めたのである。「激しい降雪で前を行く列車が徐行運転しているため・・・」と眠気を誘うような、抑揚を抑えた声で車内放送が繰り返される。トイレに立つのはおろか身動きさえままならない乗客の苛立ちは、いつ爆発してもおかしくない状態であった。

 力なくのた打ち回っていた蛇が息を引き取るかのように、列車が自力で動くのを完全に止めてしまったのは加賀温泉駅を過ぎて、小松(石川県)に入る手前あたりだったろうか。「先行する列車がすべて途中駅で避難し、線路をふさいでいるためこれ以上進めない」とのアナウンス。そして「危険だからデッキや外には絶対に出ないように」とも繰り返す。すでに日付は変わって30日午前3時すぎ、列車は予定運行時刻を5時間以上も遅れていた。帰省をあきらめ途中駅で下車した人もいたのだろうか、立っている乗客の間には、心なしかわずかながら隙間が見られるようになっていた。

 明け方、国鉄(当時)の職員が数人、雪まみれになって車内に入り込んできて「女性と子供とお年寄りを近くの村の公民館かお寺かへ避難させる」と誘導して行く。列車は雪にすっぽりと埋まったまま、まるで繭の中にでも閉じ込められたような形である。蒸気が止まって暖房も効かず、照明さえつかない車内に取り残されたのは男性だけ。ふる里への正月のおみやげとして大切に携えていた饅頭や化粧箱入りのお菓子などを融通しあって空腹を満たす。その空き箱などを車内で焚いて暖をとり、照明灯のカバーを外してその中に国鉄職員が持ち込んできてくれた蝋燭をたてて灯かりをともす。やがて国鉄職員が命がけ(?)とやらで運んでくれる1日4個の炊き出しのおにぎりと白湯(さゆ)が配られる。一歩も外にでることができず車内はゴミの山、悪臭・異臭が鼻を突く。そんな暮らし(?)が3昼夜ほど続いただろうか。やがて自衛隊が隊伍を組んで列車の“掘り出し”に到着したとの知らせをうけて、車内残留者たちの間からは思わず大きな拍手と歓声があがった。そんなこんなで、新潟県の北端に位置するわがふる里・朝日村にたどり着いたのは、正月も3日になってのことだった。あれから40年、ふる里の正月とはご無沙汰である。



菅井 義夫
(すがい よしお)

昭和30年3月岩船郡朝日村・塩野町小学校卒業
現職:中央労福協(労働者福祉中央協議会)事務局長、UIゼンセン同盟顧問
略歴:1964年東レからゼンセン同盟へ出向、1970年ゼンセン同盟から国際自由労連アジア労働大学留学(インド)、1989年連合(日本労働組合総連合会)中小労働対策局長、1990年ゼンセン同盟に復帰し組織局長・総務局長・副書記長等、2000年ゼンセン同盟副会長、2002年UIゼンセン同盟副会長、2004年UIゼンセン同盟顧問・中央労福協事務局長




筆 者




やっと動き出した列車
しかしその運行はままならず
(金沢市の手前、寺井駅にて)




ゼンセン同盟の国際交流で
リードする筆者(1976年頃)




UIゼンセン同盟の大会で
演説する筆者
(東京厚生年金会館)
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

「鮭っ子物語」バックナンバー

次回予告
鷲田 守夫
昭和 年3月小学校卒業 


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