2024年4月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.246

あげたおにぎり あげられなかったおにぎり
~所沢市「平和の語り部」の思い~(その4)
杉本 孝一郎
(すぎもと こういちろう)
昭和7(1931)年1月、東京で生まれる。明川国民学校高等科入学、昭和20年に疎開で一家で村上町に転入。同年、父と共に宮本製作所入社。昭和22(1947)年、町営番長住宅に移転(後に飯野に自宅を建てる)。昭和24(1949)年、県立村上高校定時制夜間部に入学。在学中、村上高校全学弁論大会で優勝。昭和29(1954)年3月、村上高校卒業。昭和34(1959)年に結婚し、昭和39(1964)年に一家で上京し昭和43(1968)年に所沢市に移転。その後、地域活動として入間基地騒音の防音対策、平和の語り部、東狭山ヶ丘駅ロータリーの花壇の世話、児童の見守り隊などに取り組み、令和元(2019)年に長年社会貢献の功績で埼玉県より「シラコバト賞」受賞。





筆者の近影











「村上高校旧校舎、正門」










「筆者が優勝した2年後に村上高校岩船分校で開催された『弁論大会』の看板」










『弁論大会』で得た優勝盾の表面」





「優勝盾の裏面。筆者の名前が記されている」



家族は次々東京へ

 焼け出された後も、東京でもう一度建具屋をやりたいと考えていた父は、戦争が終わると、2,3カ月で宮本製作所を辞めて、東京の病院の戦災復興の仕事を見つけてきました。東京・新橋の十仁(じゅうじん)病院という整形外科の大きな病院で、建具職人の技術も生かせる仕事でした。当初は病院の一室に住み込みで働き、東京と新潟を行ったり来たりしていましたが、やがて東京に移ります。
 弟の孝次は村上中学校に進学しました。後でわかるのですが、中学の卒業式では、卒業生代表に選ばれて答辞を読み、最優秀生徒として表彰もされました。答辞を読んだことも表彰されたことも家族には話してませんでした。昭和23(1948)年に中学校を卒業した孝次は、東京で住み込みで働いている父のもとに身を寄せました。その後、父が世話になっていた十仁病院の書生にしてもらうことができ、病院から学費の支援も受けながら芝浦工業大学の付属高校から大学に進学、芝浦工大の電気専攻科を卒業して電気技師となりました。しばらくは東京の会社で勤務していましたが昭和35年頃、専門の電気技術の知識を生かして、池袋で「協電社」という空調設備の会社を興しました。
 三男の武は、うちに物売りに来ていた農家のおばあさんに気に入られ、「うちに住んだら」と声をかけられました。おばあさんは自分の長男が病弱なので、武を養子にできないかと考えていたようです。おばあさんの家は4,5キロ離れた猿沢(さるさわ)でしたが、小学生の武は自分でおばあさんの家に行くといい、そこから中学校に通いました。町営住宅が狭い上、家族思いの子でしたから、自分が出ればうちの「口減らしになる」と考えたのかもしれません。うちとはずいぶん離れていましたが、武は休みになると、おばあさんの家でとれた卵や野菜を持ってきてくれました。その後、おばあさんから何度か「籍を入れて、養子にしたい」といわれたようですが、母は「自分が生んだ子なので」と断りました。武も農業をやる気がなかったようで、中学を卒業後、名古屋市内の大手繊維メーカー、東洋レーヨンに就職しました。その後、孝次に誘われて「協電社」に入社、東京に移りました。
長女の玲子は地元の県立高校に進みましたが、途中で父が病気になって収入が減ったのを機に、自分で中退し、やはり父を頼って東京に行きました。
 次女の千鶴子は中学卒業と同時に、東京・八王子の知り合いの洋裁店に就職しました。結婚して今は(埼玉県)入間市に住んでいます。
 母も、父の東京での暮らしにめどがたつようになると、東京に移りました。このため、(昭和)30年代に入ると、村上市に母が建てた家に住んでいたのは、私と一番下の小夜子だけになり、小夜子はそこから地元の中学、高校に通いました。母が東京に移って以降は、母に給料を渡さなくてもよくなりましたが、母が東京に行く時、「小夜子を頼んだよ」といわれ、小夜子の生活費と学費はすべて私が負担しました。小夜子は今も私に「一番お世話になりました」と感謝してくれます。
 その小夜子も高校を卒業すると、東京の流通大手の丸井に就職して東京に移り住み、結局、一家で新潟に残ったのは私だけになりました。

夜間高校と結核
 私は宮本製作所に入社した当初は、製造現場で働きましたが、社長さんに引き立ててもらい、下請け会社の担当となって農機具の部品を作る各地の工場を回るのが仕事になりました。さらに購買担当となり、資材全般を調達する仕事を担当しました。当時は、資材の運搬をしている(現日本通運)が大きな取引先でしたが、その価格交渉なども、任せられるようになりました。
 世の中が少し落ち着くと、私のように戦争で学校に行けなかった若者が働きながら学べる定時制高校が全国に設立されるようになりました。地元の新潟県立村上高校にも昭和23年6月、定時制課程が開設されました。中学も満足に通えなかった私は、なんとしても高校に行きたかったので、24年に17歳で同校の定時制夜間部に入学しました。
 周囲には、同じように戦争で学ぶ機会を失った人が多く、宮本製作所からも大勢の社員が村上高校定時制に通いました。昭和29年に社内のOBと現役の学生で「新声会」という集まりを発足させたところ、歴代会員は40人を超えました。村上高校では宮本製作所の人間が一大勢力になっていました。
 仕事は朝早くからありましたから、夜勉強するというのは大変でした。当時、「就業時間8時間」といった決まりはありませんから、午前6時に起床して、午前7時半に出社すると午後5時か5時半ごろまで働きました。高校の授業は午後6時半から午後9時まででしたから、仕事を終えると自宅に直行し、食事をかき込んで学校に向かいました。小夜子も食事作りを手伝いましたが、時間がなく、3日に一度は店屋ものでした。私は中学にもほとんど通えていなかったので、高校の勉強について行くのは大変でした。
 満足な食事もせず朝から夜遅くまで仕事と勉強を続けたのが体に悪かったのでしょう。私は肋膜炎(ろくまくえん)(胸膜炎)に(かか)ってしまいます。自宅で一日中横になり、肋膜にたまる水を抜くという日々が続きました。熱も長く続きました。ずっと寝たきりでしたから、半年後に布団の下の畳が腐っていました。自覚症状はないのですがその後も、健康診断のたびに、レントゲン検査で胸に結核の影が見つかり、入院したり自宅療養をしたりを繰り返しました。定時制高校は4年で卒業ですが、結核治療で1年間休学するなどしたため、卒業まで5年かかりました。
 このころは、私の生涯で最も苦しい時代でした。空襲で家も家業も失い、家族を支えるために勉強も断念して懸命に働きましたが、家族は多く、暮らしはいつまでたっても楽にならない。何とか高校入学を果たしたものの、何度も病魔に襲われ、学びたくても、働きたくても起きられない。「あの戦争さえなければ、今頃は父の跡を継いで建具屋をやっていただろうに」、「今は日々食べるために働くだけ。私にとって生きる意味はあるのか。いっそのこと死んだ方がいいのでは」と思い悩んだ時期でした。

弁論大会優勝
 そんな学生生活で、いい思い出となったのは弁論大会でした。法務大臣時代に田中角栄元首相を逮捕した稲葉修さんは村上高校の先輩で、「後進を育てたい」ということで、稲葉修杯という弁論大会を作ってくれました。これは村上高校の昼間部、夜間部と7つの分校の弁論部員が年1回集まる大会で、私も弁論部に入ってこの大会を目指しました。
 何回かの挑戦の後、卒業の年の大会で、ついに優勝しました。大会6回目で夜間部の学生が優勝したのは初めてでした。優勝盾にも名前が記されています。テーマは「誠実に生きる悩み」でした。
 そんなこともあったからか、卒業前に教頭から「杉本さん、あんたどうしても大学に行った方がいいよ」と、進学を勧めれました。「働いて家族を支えないといけないので」と断りましたが、「残念だなあ」と言われました。今もこの言葉は励みになっています。もっとも私は子どもの頃、親の後をついで建具屋になろうと思っていたので、戦争がなかったとしても大学には行ってなかったかもしれませんが・・・。

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 今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。
   (pp.55-64)

  
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次回予告

 
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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